えんがわあぶり

精神疾患を馬鹿にしていたら自分が精神障害者になっていた。

あなたの人生なんだから好きにしなさい

目つきの悪い女が好き、寿司マーブルです。

唯一無二の女になりたいね。

 

双極性障害になる前から気分にムラがある人間で、治さなくてはと思うたびに気づいたらモヤモヤした気持ちを殺すために全てをリセットしているということがよくある。

感情に脳みそをぶん殴られた3秒後にはネットを見ている。嬉しかった数分後に手の甲をつねっている。

感情が独り歩きしていくことに慣れてしまって、自分の理性は全く育たないままこの歳になってしまった。

 

ゴムボールのように跳ね回る気持ちと、ちぎれた輪ゴムのような理性。

 

一歩引いて人と会話をするときは「社会性」が感情を潰してくれる。

「真面目」「賢い」「大人しい」というレッテルを貼られ、ぎこちない笑みも手伝って「冷たい人」という私が知らない私が他人の心にできている。

 

「私、もっとユーモアあるんです。」

 

血の通った人間であることを知ってもらいたくて手を伸ばそうとする。

でも人の背中にそれが届くことはなくて、一歩引いた距離感は埋まることがないまま、「社会性」に引っ張られていくうちに、不正を治していくうちに

気づいたら「怖い人」になっている。

 

家では「生活能力のない人」で、一歩引いて話す人からは「怖い人」。

私の手を取って微熱を感じた人は「実は面白い人」。

じっとりと汗ばんでいくのが分かるほどに手を離さなかった人からは?

たぶん「面倒くさい人」。

 

私が思ったより汗っかきで、他人の手を汚すくらいに図々しくて、「社会性」が「理性」の代わりをしていることに気づいた頃には、感情はどんどん揺れていって振り回して、飢えた野良犬みたいに誰かの愛情を求めていく。

 

インターネットの私はどう見えている?

 

健常者の人と話す方が楽だったりする。

私が雑なことを言ってもうまくキャッチして返してくれるから。

ここにいるずっと前からある私の居場所は、誰かが誰かによりかかることもなく、辛いときは壁にゲロを擦り付けて、自分の袖で涙をぬぐって、毎日を生きている。

危ない人もいる。でも全員「社会性」で自分を奮い立たせられる程の器量がある。

居場所というよりはよく座っているところ、くらいの感覚で、人が足繁く往来するのを眺めて少し落ち込んだりしていた。

 

自分には足があるはずなのに歩けないな。涙の拭き方が分からないな。

 

そう思ったときにいったんそこから離れて、別人としてアカウントを作った。

気づいたらそれなりに会話できる人が増えて、実際に会った人もいた。

馴れ合いというのは、ぬるま湯のような、遅効性の毒のような、ともかく悪性の居心地の良さというものを感じた。

一方でつながりは、自分が一人ではなく、ささいな感情であっても「必要」という自覚をわずかながらも持たせてくれた。

 

炎症を抑える薬も塗りすぎれば荒れる。

人とのつながりに依存し始めたらそれは心が荒れていく一方だ。

 

必要もないのに自分への批判を目にしてしまう。

「褒められる」ことは多いはずなのに貯めこんでいたはずの袋には何も入っていないような錯覚を覚えてしまう。

「自分が嫌われている」という些細な事実が100のように思えて、余分な馴れ合いで勝手に傷を作った。

 

アカウントを消した。

戻るつもりは毛頭なかった。心底つかれた。それ以外の感情はなかった。

 

 

 

インターネットの私はどう見えている?

 

 

鏡で自分の顔を見るように、簡単に人の中の私は見えない。

見えないからいいこともある。

見えないから悪いことも、もちろんある。

ニキビ跡のように隠せるものなのか、手術をしないといけないほどのものなのか。

他人の中にある私をどう整形していけばいいんだろう?

鏡がないなか試行錯誤、無駄だと気付いたのはたった今のこと。

 

ここからほんの数日離れた。

視界の靄が少し晴れて、心に届かなかった声が床に散らばっていることに気づいた。

拾い集めて一つずつ並べて置いていくうちに、自分の心に届けるべきだったものの選択を間違えていたのかも、と感じた。

 

電子の海で、私は何をもがいていたのだろうか。

 

ありのままの自分を見せることが正しいことばかりではなく、「社会性」で押さえつけるのではなく、「理性」で感情を正すことが私には必要なのかもしれない。

 

 

子供のころからインターネットはもう一つの現実だった。

昔は人と人との距離がそんなに近くなかった。ぼやけたガラスの向こう側で相手が何をしているかまではわからない。でも、確実に人がいる。そういう認識だった。

 

今は。

手まで取りあえてしまう。人の心に遠慮なく入り込めてしまう。下手をすれば人生を大きく左右してしまう。

 

それが良いことなのかはわからない。でも、昔より確実に、もう一つの現実はこちら側と同化しようとしている。

 

自分の意見が正しいとは思わない。他人の意見に流されることもよくある。

でも、他人の言葉にいちいち体を取られていたら、まっすぐ進めない。

波に逆らう「図々しさ」が、もう少し必要なのかもしれない。

あるいは、そんな波に飛び込むことさえしなきゃいいのかもしれない。

インターネットの中くらいは、優しさだけ選んでもいいのかもしれない。

 

関わった全員に幸せになってほしいと思う。そうすると心に余裕が生まれるから。

余裕が生まれると他人を気にすることもなくなるから。辛い思いをしなくて済むから。

素直な人ほど、傷ついてしまうことを私は理解している。

素直な人ほど、誰かの心をえぐってしまうこともある。

素直なだけが正しいんじゃない。どういったらいいかわからないけど。

少なくとも、自分の意見を言うことがすべてではない気がするから。

 

インターネットの中の私はどう見えている?

 

ここまで書いて、自問自答をしながら答えは見えない。

意見がほしいのかもしれない。客観的な意見が絶対だと思っているから。

「女のセンスが良くて情緒が不安定でかまってちゃんな寿司」

という認識であっているのかしら?だれか?

 

自分の中の私は、他人の言葉で何とか作り上げた、矛盾だらけの偶像。

鏡がないからむりくりくっつけたり、離してみたり、よく考えたら本当の私ってどこにあるんだろうか?

 

考えていたらこんな時間ですよ(笑)あ~あ、メンヘラの辛いところね、ここ。

 

馴れ合いの中で見つけた手放したくないつながりを、一歩下がって続けていけるように、それは頑張ってもいいことなんじゃないかと思った。

「頑張る」ことは悪いことじゃないよ。「ムリする」ことがダメなことなんだよ。

 

彼氏に「相手が悪いことが大半だけど、少し気が使えないところがあるのかもね」と言われて、きっとそれは私が素直と暴言をはき違えてしまった結果だったんだろうと思う。

誰にも言われたくないことはある。私なんか地雷原の塊だ。

一度壁打ちして自分に跳ね返ってきたときに違和感がないかどうか、確認してから言わなきゃな。

ただでさえ、脆い部分が多いから。

 

一歩引く、目があえばにこりと笑う、会釈。

思いやりとマナーを大切に。

シートベルトで守れる命。

 

今日はお寿司をかちこんだので、辛い気持ちの人もOS(OVER SUSHI)をするといいと思います。

太陽にはなれなくとも、誰かを照らす街灯になってみせましょう。

 

私のこと好きな人、大好きだよ。いつもありがとうございます。

 

現場からは以上です。