思い出を置きざって
満身創痍、寿司マーブルです。
結節性紅斑でカタツムリより歩行が遅い日々です。
病院のおかげでだいぶよくなりました。この話も来週以降書きますね。
先日は低気圧で大変でしたね。皆さんは大丈夫でしたか。
病気になってからというもの気圧に左右されやすくなりました。
雨もしとしと、体もボロボロ、メンはヘラヘラ。寝るしかない。本当にもう。
でもそういう時に限って外せない用事を入れてしまっている、人間だもの。
母校に行ってきました。
高校です。その前に大学に行けって話だよ。
私が「高校の教師になる!」と決めたきっかけである先生に連絡を取って会いに行きました。私はもともと社会の高校教師になるために今の学科に入ったのですが、体調悪化のため大学の教授に「体調優先にしなさい…」と言われ教師の夢は半ば途絶えました。
まぁ、この体調でなれたとしても生徒に迷惑がかかるし、高校3年間は一番大事な時期だと思っているのでなおさらなる気はないです。
雨の中足を引きずって歩きます。低気圧でTLも鈍足です。
学校までは3キロくらい歩きます。途中で数分電車に乗りますが、降りる駅の手前で電車が大きな川を渡ります。朝は陽の色が川に反射して少し幻想的、霧が強い日はちょっぴりミステリアスな景色。毎日様子を変えるそれを見て、高校生ながら「贅沢な風景だよなぁ」と思いました。
あいにくの雨ですがやはり綺麗です。ワンマン電車なので乗車している車掌さんに定期を見せて降りると、見たことのある田舎町が広がっていました。
とはいっても少しずつ建物が変わっていたり、なんか距離まで違う気がして、足は勝手に通学路を覚えているのも面白くて足が痛いけど校舎までたどり着きました。
おそるおそる侵入し(もう生徒ではないので)校舎内に靴を脱いであがると、生徒も少なくシンとした空気が体中をすり抜けていく。遠くで聞こえるホルンの音や職員室前で勉強する生徒の姿を見て
「これだ~~~」
となった。どれだよ。
とにかく高校の空気を肌で感じて異様に興奮した。画鋲で貼られたチープなポスターも、テストの内容が書かれた藁半紙のプリントも、緑色の黒板も、全てが興奮材料だった。
大学には及ばない小さな空間で大きな夢を描いていたあの頃の匂いがかすかに残っていた。私の中に。
職員室に入る。ただす制服もなかったのでとりあえず雨粒がついてないか確認し、気持ちを整えて少しドアを開けた。知らない先生と出くわしてお互いびっくりしてしまい気持ちが乱れた。入れない。
あたふたしながら少し顔を中に入れてみた。すると先生がすぐ見つかった。前の席と違う場所になっていた。少し想像してたよりぼさぼさしてた。
「おぉ~」と先生は言った。
「へぇへ・・お久しぶりです・・」と私は先生の所まで行き、お辞儀した。
「お前、何かあったか」と言われた。
誰に対しても本当に平等に人をいい感じに見下している先生だった。人を見下せるくらい知性があったし、面白い人だったからお前と言われても全く気にならなかったのが印象に残っている。
わざわざ来たが、特に用事はなかった。死ぬ前にどうしても会いたいと思ったから連絡をしただけだ。しいていえば留年しました。しいていえばあなたの生徒の中でとりわけ不思議な道を進むと思います。しいていえば、くらいの話。
「お前教師はどうするんだ。教職は?」
「そ、その話なんですが・・・りゅ、留年しました・・・はは・・・」
「バカやん。お前何しとんの」
ごもっともすぎて笑ってしまった。確かにバカだ。一人の女に振り回されて気づいたら留年していたなんて本当にバカだ。
手帳もつくらいの障害でなんとか生きてますと説明した。留年もそれでしてしまいました、とちょっと言い訳に使ってしまった。バカだな~
「えっそんなことになってたのか!」とびっくりマークがつく程度には驚いていた。
ひとしきり話をして先生はいろいろ「お前はこれからこうしていくべきだよ」と言ってくれた。
・同じ病気の人と関わりをもつこと。そして社会に慣れること。
・この1年間を利用して自分の病気についてよく知ること
・うまくいかないのはもううまくいかないのだから仕方ないと割り切れ。
・他人に説明する力をつけろ。許されるためじゃなく知ってもらうために。
あの先生が結構悩んで言葉を使うのは初めて見たからびっくりした。いつもきついこといって笑わせてくれるのに、でも腫物扱いとまではいかず「こういういいかたはよくないんだろうな」と考えながら言ってくれる感じだった。
「怒りっぽいな~、でもあの人はそういう人だからって済ませてしまうのと同じで、あの人めっちゃ休むな~、でもあの人はそういう人だから、で済ましてくれる社会を見つけなきゃいけないんだよなお前は。」
「生活に支障が出なきゃそれはもう個性なんですよ。私は支障があるから障害になってしまったけど」
「そういうことなのか?(笑)」
なぜか笑われたけど私はそうだと思う。実際障害というものはどれだけ周りをぶん回しても自分が楽しければ気づかないものだ。そうしていくうちに許せない人は離れていき、許せる人は「ああいうやつだから」で済まして順応していく。
自分が自分の体で順応できない限り、私はこの違和感を抱え続けることになるんだろう。
先生は相変わらず何でも知っていた。尊敬していた姿のままだった。私もいつしか生徒に戻っていた。何年も教師をやっていればきっと私より苦しい思いをした生徒を知っているし、実際にいなくなった生徒もいたのかもしれない。
「なんでできないんだろう…って思っても、できないんだからしょうがないんだよ。だからってそれを許してくれないやつともかかわらなきゃいけないのが社会だよな。」
「そういうやつには詳しく理解してもらう説明をしなきゃいけない。それはお前が許されるためじゃなくて相手が納得するためだよ。」
もうほんとに、その通りだと思う。
「毎日がわかんないんだよな。一日でも急にダメになったりするんだろ」
朝は楽しかったのに、昼には泣いてるなんてよくある。
何も言っていない、病名すら言っていない。なのになんでこんな読み取れるんだろう。
顔に書いてあるんだろうか。言葉は鋭いのに絶対に急所に当ててこない、当たっても「コツン」と当たるだけで全く痛くない。むしろ「コツン」が体に響いて心地よい。
頭のいい人は言葉を扱うのが本当に上手だ。
しばらくするとほかのお世話になった先生もやってきて3人で話した。
私の学年の生徒は全く先生たちに会いに来ていないそうで、あんなに「うちらの世代最強だね~~~!!!」って感じだったのに薄情だな~と笑ってしまった。
きっと薄情ではなくて、彼らは全員思い出に縛られることなく次に進めたのだろう。
未だに高校に未練を残してきてしまった私とは違う。羨ましいと思った。
先生たちも「あんなに世話を焼いてやったのに」と言っていたが、笑っていた。
未練なんてなくていい。思い出はおいていけばいい。
振り返るばっかじゃ自分は成長できないな。
今の私は、過去の自分に縋る進めないままの私だ。
言葉で言われなくても伝わるものはたくさんあった。
そうして1時間くらいで帰った。雨は上がっていた。
「というかよくきたね。帰れるか?」といわれ「頑張ります」と笑顔で答えた。
傘を杖代わりにしてゆっくり帰った。正門まで少し遠回りをして、運動場のほうまで行ったりした。
どこかに何かが必ず落ちている。どの角度から景色を見ても、その時の記憶が戻ってくる。
正門に引かれている白い線が今が過去になる明確なラインのように見えた。
高校の私は蘇ってこないし、今の私と交代だってできない。
あの頃の記憶のまま死んでしまえたら幸せなのかもしれないと何度か思ったことはあるけれど、きっとこれから私はこの不格好な精神で生きていく。生き延びていく。
振り向いて1枚だけ写真を撮った。そして正門を通り道路にでた。
足の鈍痛がやたらひどいので、帰りの倍の時間をかけて帰りました。
彼氏に悪態をつきながら駅に行く途中に高校生に抜かされて「若いな」とちょっぴり思ったり。
やっと来た電車は足を休めるには十分すぎて、そのまま終電まで休憩させてもらいました。お母さんに迎えに来てもらったし、とても頑張った一日でした。
春には大学が始まります。長い夏休みも終わり、私の人生の幕がもう一度上がる気分です。
無理はせず、油断もせず、自分の体のわがままをちょっとききながら、のんびり生きていきます。
「歩いたこと」が翌日の地獄を引き起こしたのはまた別のお話。
現場からは以上です。